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カテゴリ「クラクフ」のブログ
旅行から戻ってきて1週間以上経ちましたが、この記事でポーランドの旅についての記録はおしまいにします。
前回の記事に書いたアウシュヴィッツ強制収容所は、『アウシュヴィッツ1号跡』と呼ばれ、1940年に設けられました。これから書き記すビルケナウ収容所は、正式名所は『アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ収容所』で、1号場所との距離は約3キロです。
ナチスによって全ヨーロッパから連行された、約100万のユダヤ人の大量虐殺を目的とした設備のほとんどは、アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ収容所において建設されたそうです。そして、アウシュヴィッツ収容所の犠牲者の大半が、このビルケナウで殺害されました。
1944年には、9万人以上の囚人(ユダヤ人、ポーランド人、ジプシー、ロシア人など)が収容され、木造の囚人棟が300以上あった最大規模の強制収容所です。
■13kmを超える収容所の囲い
■10kmに及ぶ収容所内の道路
■2km以上の線路
■恐ろしく膨大な敷地
■保護されている数十棟の粗末な木造の囚人棟
■破壊され廃墟となった囚人棟
この全てが、人間の大量虐殺を唯一目的としていたアウシュヴィッツ収容所の特殊な構造を明確にしています。
一度入ったら決して出られることのないこの悪魔の敷地は、途方もなく広いこの世の地獄。どんな想いでこの終点に着いたのか、私には決して分かる日は来ないでしょう。
この見学は、教科書でしか戦争を知らない、平和な時代にのほほんと生きてきた私には、最も過酷でリアルな現実でした。息苦しくて、正直目を背けておきたかった場所。でも決意して足を踏み入れ、たくさんのことを考えるきっかけを与えてもらました。間違いなく一生忘れることのない大きなシコリが胸に残っています。このシコリは多分、ここを訪れた全ての人たちが、それぞれに持ち帰っているものだと思います。それを感じることが、人類最大の悲劇を2度と繰り返さないための、犠牲者に関する記憶を永久に保存するための、後世に生きている私たちが出来る、唯一のことのような気がします。
いつものブログとは違い、とても重たい内容で、このブログを覗いてくださった皆さんにも、私の気持ちを共有して頂いたことに心から感謝します。
最後までお付き合いいただいた全ての方々へ。
本当にありがとうごいました。
見学の前日に、クラクフ旧市街の旅行代理店へ行き英語ガイドツアーに申し込みました。当日の旅程は、クラクフ中心地で朝9時にピックアップされ、夕方4時頃、またクラクフ市内へ送迎してくれるというもの。
内容は、アウシュヴィッツとビルケナウの2つの強制収容所を巡り、現地ガイドが収容所を案内し、背景を説明してくれます。
収容所は入場料無料ですが、もし見学される方は、ガイドツアーに参加することをオススメします。英語ガイドだけでなく、日本語ガイドツアーもあるそうです。ただ見ているだけでは分からない多くのことを、ガイドさんは教えてくださいます。それらの説明はこのアウシュヴィッツやビルケナウを知る上でとても重要なものだと思いました。
ここに携わるガイドさんは皆、難関と言われる試験を突破されている方々だそうです。彼らは歴史の伝達者であり、史実が隠蔽されることなく、訪れる人々の記憶の中に永遠に留めて欲しいと願っているのを目の当たりにしました。
収容所内で今でも目に焼きついて離れない、いくつかの棟について、ここではお話します。ほとんどの場所で写真撮影は許可されていますが、私は棟内部でカメラのシャッターを押すことが出来ませんでした。でも写真よりも遥かに鮮明に、私の記憶に映像として残っています。
棟内の写真は1枚しかないので、私の文章だけで、その痛ましい様子が伝わるのか分かりませんが、自分の記録のためにここに書き記しておこうと思います。
■アウシュヴィッツに連行された合計人数は、約130万人 (内ユダヤ人 約110万人)
■アウシュヴィッツに登録された合計人数は、約40万人 (内ユダヤ人 約20万人)
■アウシュヴィッツで殺害された合計人数は、約110万人 (内ユダヤ人 100万人)
(全て推定人数です。情報源: フランチシェック・ピペル)
↑ これは何を意味するかというと・・・登録もされずに、収容所に到着して即刻ガス室送りになった人々が約90万人もいるということ。これがヨーロッパにおけるユダヤ人絶滅センターの実態なのです。ユダヤ人は、性別・年齢・職業・国籍・政治的思想を問わず、『ユダヤ人である』という理由だけで殺害されました。新しく連行されてきたユダヤ人の大半がSS医師の選別で労働に適さないと判断され、ガス室で毒殺されたのです。
老人、病人、妊婦、子供には生き残る権利が与えられなかったのです。つまり収容所の囚人登録番号も付けられずにこの世を去っていったのです。
4号棟の『他民族絶滅計画』という名のついたバラック内には、囚人たちから切り取られた大量の髪の毛が部屋の片面全てに積み上げられて展示されていました。その量はおよそ2トンにも上るそうです。この部屋に入った瞬間、涙があふれ出しました。・・・・・・と同時に鳥肌が立ち、寒気、恐怖を感じて、目の前に山積みにされた髪の毛を直視できなかったのを覚えています。この大量の人間の髪の毛は、カーペットを編むために集められたという説明に、どうして同じ人間がこんなにも惨たらしいことが出来るのか・・・・・・、やり場のない気持ちを必死に抑えながら、ガイドの説明に耳を傾けました。
これがバラック内で唯一撮影した、チクロンガスBという劇薬の入っていた缶の山です。ガス室での大量殺人に使われた空き缶がこんなにも積み上げられるほどあったのです。一説によると、1缶で約400人の尊い命を奪うことが出来るそうです。
そして5号棟『ナチスの犯した犯罪の証拠』というバラック内には、ナチスが連行した人々のあらゆる遺品の数々が展示されています。
・8万足以上の靴
・3800個のトランク、(内2100個には文字が書かれています。)
・12000個の鍋
・約40kgの眼鏡
・460本の義手と義足
・570着の縞模様の囚人服
・260着の洋服
・260のタウェス(ユダヤ人が祈るときに肩にかける特別な布)
そのほか、6000点の美術品(内2000点は囚人たちが収容所内で創ったもの)など、保管されています。
これら一つ一つの展示物が、本や映画ではけっして分からなかった現実という重みを示していました。
そしてアウシュヴィッツのガイドコースの最後に、ガス室へ足を踏み入れました。そこはアウシュヴィッツ1号の第1死体焼却場のガス室跡でした。窓1つない分厚いコンクリートの壁に覆われた息苦しいその部屋の天井を見上げると、小さな穴の開いている場所があるのです。そこからガスが投入されたそうです・・・。
この場所が今このように開放され、強制収容所展として存在していることに意義を唱える人も少なくないといいます。『博物館』としての保存か、歴史を語る場として物件は完全に無くし、墓地として『記憶の場』とするか・・・という2つの論争です。
このガス室に入ったとき、私は果たしてここを訪れることが正しかったのかどうか分からなくなりました。当時のままの姿を留めている建物を前に、この2つの論争のどちらが正しいことなのか分からないのです・・・・・・。
クラクフの街並みを歩くと、今は穏やかで平和な時間が流れていることを実感します。
ワルシャワと違って中央駅や路地も危なげな雰囲気がほとんどなく、女性の一人旅も目にしました。
私が思わず立ち止まったのは、旧市街で絵を描いている人々が作品を展示している場所でした。写真かと見紛うばかりの絵もあれば、独創的な絵もあって、ついつい見入ってしまいます。随分昔から部屋に飾るための絵を探していますが、未だに私の心を鷲づかみにする絵との出会いはありません。
変な話ですが、絵には描いた人の魂や念が入ると私は信じています。これは霊感の強い伯母の話に影響を受けたからだと思うのですが・・・、絵から悪い気が発しているような気がしたり、またはその絵を見るだけで、不思議と穏やかな気持ちになり、癒しを感じたりする実体験があるんですよね~。全く絵心のない私ですが、絵を見るのは好きです。残念ながら、ポーランドでも絵との運命的な出会いはありませんでした。残念・・・。
こちらは↓クラクフのバルバカンです。これは、1498年に造られた円形の砦、バルバカン。このクラクフに現存するものが現存するバルバカンで最大規模だそうです。
ポーランド料理をご紹介する前に、クラクフで泊まったグランドホテルの廊下にあるステンドグラス窓がとっても素晴しかったので載せておきます。
3泊4日のポーランドの旅で、一晩だけクラクフでポーランド料理を食べに行きました。っといってもガイドブックを頼りに行ったわけではなく、完全に行き当たりばったり。ローカル人で混み合っていたポーランド料理店だったので、きっと間違いはないはず、という値踏みの元に入店。
こちらが唯一食べたポーランド料理3品です。
まずは右上が『ピエロギ』、いわゆるポーランド風餃子です。中身はひき肉、カッテージチーズ、きのこなど。なかなか美味しかったけれど、日本の薄皮の餃子の方が日本人の口には合うかな~。
真ん中は『ジューレック』という発酵したライ麦を使う、少し酸味のあるポーランドの定番スープ。ソーセージやじゃが芋などが入っていました。味は少々塩味がキツイです。
左奥が『ビゴス』という伝統料理。キャベツとザワークラフト、ソーセージなどのお肉を加えて長時間煮込んだ典型的な家庭的料理だそうです。これが絶品でした!!!
ポーランドにはその他、『ポテトパンケーキ』や『ロールキャベツ』、『ポンチキ』という薔薇のジャムが入ったイーストドーナツなどなど、美味しそうな郷土料理がたくさんあるんですが、どうにもこの旅は食欲が出ず、見送ってしまいました。いつかまた食べられるかな・・・。
さて、ワルシャワから鉄道に揺られること約3時間、クラクフに移動しました。1等車に乗ったのに、とてもそうとは思えないほどレトロ(というか、古すぎるぅ~!!)列車に少々苦笑いです。トイレットペーパーの質に正直驚きました!その昔学校で見た藁半紙を思い出しました(笑)
そんな話は置いといて・・・(^^;)
クラクフ中央駅に到着!!ガイドブックによると、『ワルシャワが東京であるなら、クラクフは京都』と例えられるそうで、歴史的な街並みを残していて、1978年にはユネスコ世界遺産に登録されています。第2次世界大戦で他のポーランドの都市が壊滅状態だったにも関わらず、クラクフが戦火を逃れたのは、ここにドイツ軍の司令塔が置かれたためだといいます。
クラクフは、近年そんなユダヤ人の悲しい歴史に包まれてしまいましたが、実は14世紀後半~16世紀後半まで、ボヘミアのプラハ、オーストリアのウィーンと並ぶ中央ヨーロッパの文化の中心だったそうです。
ポーランド王国の首都として数百年に渡る華麗な時代があったわけです。旧市街の南側ヴィスワ河畔の丘に今でも凛とした姿で佇むヴァヴェル城を見れば、なんとなく過去の輝かしい栄華をうかがい知ることが出来る気がします。
ヴァヴェル城敷地内でウェディングフォトを撮影中のカップルに遭遇しました♪
絵になりますね~!!旅行中、ヨーロッパ各都市でこういった風景を目にしますが、いつ見てもとってもハッピーな気持ちになるから不思議。幸せをおすそ分けして頂きました。つい2ヶ月前、私自身も被写体側でしたが、ヨーロッパは街の何処で撮影しても風景が素晴しいので、素敵な写真に仕上がるのが嬉しいですね!
ヴァヴェル城の目の前を穏やかに流れるヴィスワ川を眺めながら、たそがれてみました(笑)
ポーランド3日目。
今日は丸一日、アウシュヴィッツ と ビルケナウ収容所を見て廻りました。この旅の最大の目的は、ワルシャワの世界遺産やクラクフの世界遺産を巡る事ではなく、この強制収容所を訪れることでした。昨日、クラクフ市内にある旅行代理店をたずね、英語ガイドツアーに参加申し込みをしたのです。
さっきからPCの前に座っていますが、一体私は何から綴っていいのか分かりません・・・。そして何を綴るべきなのかも見えません。
アウシュヴィッツからホテルに戻ってきて、あまりの精神的疲労と衝撃のため横になったのですが、夢を見てうなされました。アウシュヴィッツに強制収容され、さっき目にした過酷で非人道的な景色の中を必死に彷徨っている途方もない苦しい悪夢でした。
きちんと気持ちを整理し、私が見てきたこと、感じたことを書きたいのですが、もう少し時間が必要です。落ち着いたらきっと書きます。
この写真は、アウシュヴィッツの入口ゲートです。そこにはドイツ語で、『ARBEIT MACHT FREI』(働けば自由になる)という文字が平然と掲げられています。
この門をくぐって行った推定130万~150万人のうち、1945年にソ連軍によってアウシュヴィッツ収容所が解放され、救出された囚人はわずか7000人。ここでの『自由』とは、『死』以外の何をも意味しないことを考えると体中が震え出します。
この文字の『B』をよく見ると、上下の膨らみが逆さであることが分かります。これは収容者が作らされたものであり、ここにせめてもの抵抗が表われているという説があるそうです。
今日はこのへんにします・・・
すみません・・・